そこにあること
2025年12月6日(土)– 2026年1月24日(土)
KOTARO NUKAGA Three
アートプロジェクトN projectは、KOTARO NUKAGA Threeにて、2025年12月6日(土)– 2026年1月24日 (土)まで、木津本麗個展「そこにあること」を開催します。
木津本麗は1998年滋賀県生まれ。2023年、京都芸術大学大学院芸術研究科美術工芸領域油画専攻を修了し、現在は関西を拠点に制作を続けています。作家の幼少期の記憶と強く結びつくフェルトをランダムな形状に切り取り、それを放り投げて現れた布置をもとに、描き出した絵画作品を制作しています。
わたしたちは木津本の絵画の前に立つとき、ことばをさがしてしまいます。
フェルトはかつて彼女の母親が、幼い彼女のために作ってくれたおもちゃの記憶、何にでもなれる、魔法の切れ端でした。木津本は、そのフェルトをランダムに切り出し、彩色を施し、それを床に放り投げ、そこに生まれたかたちの重なり、色の交わりを、キャンバスへと拾い上げていきます。まるで偶然に身を委ねるように。
観る者は、まず、その画面にある色やかたちを「認知」します。ピンク、イエロー、グリーン。曲線、直線、有機的な輪郭。それは何かの風景や地図のようでもあり、あるいは、ただの色とかたちの戯れのようにも見えます。わたしたちはそれを知っている何かに当てはめようと試みるのです。「これは花かな」「あれは丘のかたちに似ている」。しかし、その試みは、心地よい裏切りにあいます。木津本の絵画は、性急な「理解」を、ふわりとかわしていきます。絵画が意味のレッテルを貼られることを、望んでいないかのように。
それは、わたしたちがはじめて世界と出会った瞬間に似ているかもしれません。まだ名前を持たないものたちに、ただただ目を見張る、無垢な驚き。木津本の絵画は、わたしたちを「感性」が、静かに目を覚ます場所にそっと連れ戻します。ここでは、論理的な分析や知的な解釈は、二次的な意味しか持ちません。
画面を満たすのは、説明的なことば(シニフィエ)から解き放たれ、ただの色とかたち(シニフィアン)であろうとすることの喜びとも言えます。シニフィアン、つまり記号表現そのものが持つ、豊かな響き。木津本は、フェルトという柔らかく、温かな物質を手がかりに、その響きをキャンバスの上で採譜していきます。
高度に発達した現代の情報化社会において、情報のスピードははやく、「認知(シニフィアンの知覚=伝わる)」と「理解(シニフィエへの到達=わかる)」の距離は短くなる一方です。
世界との距離は表面的・技術的な距離が劇的に縮まったその一方で、フランスの思想家、ジャック・ランシエールが「(政治による)言葉と騒音の裁断」と示すように、本質的・精神的な距離はむしろ遠ざかってしまったとも言えます。
木津本は、その独自の制作プロセスによって、加速しすぎた情報化社会の中に「遅さ」を作り出します。
g
d
o
並び替えられたこれら「g」「d」「o」の文字は、意味を離れ、かたちや音としてただそこにありますが、「dog」「god」と順に並ぶことでその記号が指し示す「犬」や「神」という意味を概念として理解を促します。英語という言語システムを共有する構造内において情報を正確に伝える一方、「ogd」や「gdo」といった綴りがつくる世界の可能性は取り零されていきます。床にばらまかれたフェルトは、画面上のランダムに配置されたアルファベットのようなものです。「ただそこにある」これらの存在を「感性的なもの」として肯定するのです。
木津本は情報のはやさを遅らせ「伝わる」と「わかる」の間の距離を広げ、感性的なものに居場所をつくります。それは、情報に溢れた日常の速度の中でわたしたちの感性を取り戻すための、新たな場所なのです。
彼女は完成された物語を差し出しているわけではなく、「ただそこにあるもの」を「遅延の詩学」によって「理解」の手前で綴り、世界の可能性として響かせます。
キャンバスの上に拾い集められた、まだない音、取り零されてきた言葉は、ひとつの地平で一瞬を永遠と重なりあわせ、この静かな場所でいくつもの世界を綴るのです。
ぜひ、ご高覧ください。
アーティスト
会期
会期: 2025年12月6日(土)– 2026年1月24日(土) 開廊時間: 11:30 – 18:00(火 – 土) ※日月祝休廊 ※年末年始休廊: 2025年12月27日(土)– 2026年1月5日(月) オープニングレセプション: 2025年12月6日(土)16:00 – 18:00 ※木津本麗が在廊いたします。
会場