ついたよ : Becoming by Making

2026年3月14日(土)– 4月10日(金)

KOTARO NUKAGA(六本木)

KOTARO NUKAGA(六本木)では、2026314)から4月10日(金まで、川井雄仁とアレクサ・クミコ・ハタナカによる二人展「ついたよ : Becoming by Making」を開催します。

ポップでダイナミックな色と形をまといながら、粘土の可塑性と焼成の偶然性に向き合う川井。染め、刷り、縫い、重ねることで、和紙を第二の皮膚のように扱い、身体の経験を映し出すハタナカ。  

「ついたよ」は、「どこかに到着した」ことと同時に、待ち合わせの相手と「これから出発する」というニュアンスを内包する言葉です。粘土をこね、紙を染め、つくり続けることで自らも変容をしつづけてきた二人の実践が、本展では「到着」と「出発」を往復する開かれた地点として交差します。 

以下に、インディペンデント・キュレーターのソフィー・マユコ・アルニが本展に寄せたテキストを掲載します。 

 

多孔的な精神、多孔的な素材 

あなたがいま、かつて夢見たすべてを手に入れたと想像してほしい。読んだ雑誌、観た映画やテレビ番組、憧れのライフスタイルを切り取ったスクリーンショット、Instagramの保存した投稿。あなたの終わりなきスクロールは、いまや三次元の現実として具現化している。理想の人生が、いまここに、すべて一度にそろって待っているのだ。理想の家。素敵な隣人。幸福な想い出。愛する人々。では、この夢の寄せ集めは、いったいどのように見えるだろう? どこかぼやけているのではないだろうか? あまりにも多くの要素が混ざり合い、想像していたほどの一貫性はない。さらに悪いことに、欲しかったものはすべて手に入れたはずなのに、それでもなお、何かが欠けているのだ。 

それから、下降期がやって来る。自己不信。自己嫌悪。気候不安。社会不安。そもそも、こうした夢は何のためなのか? いまの現実とかけ離れたイメージにすぎないのなら、なぜ夢を見るのか? はるかに技術も知性も優れた人々が成功の頂点へ駆け上がっていくのを横目に、なぜ自分が何かを始めるのか? 自分の夢は、自分が属する共同体に受け入れられるのか? 夢が叶ったとして、その幸せは続くのだろうか? ハッピーエンドが保証されないとわかっているのに、なぜ新しいことを始めるのか? 

本展は二人のアーティストの物語である。川井雄仁とアレクサ・クミコ・ハタナカは、長い逆境の時期を経て、切実で、個に根ざした表現の自由を手にした。二人は夢想をやめ、自己嫌悪をやめ、その代わり、何かを始めるというラディカルな決断に踏み出した。彼らは手で作品を「つくる(making)」ことによって、鬱屈した時期を乗り越えてきた。そうして生まれたのは、素材や領域を横断するアプローチによって、どのカテゴリーにも端的には収まりきらない作品である。そして彼らは、多孔的な精神を、多孔的な素材に刻んだ。 

川井雄仁は、現代陶芸を中心に様々な分野で活動するアーティストである。日本の茨城県に生まれた川井の青春は、渋谷や原宿という文化・ファッション・音楽のハブから立ち上がる、アメリカへの憧憬も含んだ日本のポップカルチャーのリズムの影響を色濃く受けていた。川井はロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アーツで学んだのち、やがて日本へ帰国するが、そのとき長く暗い「つくらない(unmaking)」時期が始まった。自分が経験し、目に焼き付けてきたもののすべてを噛み砕き、ひとつの形にして差し出すことが、川井にはだんだん難しくなっていき、制作をいったん止める。だが、単調な日常と「こうあるべき」という社会の要請から抜け出したいという思いは、胸の奥でゆっくりと燃え続けていた。 

 31歳のとき、川井は再び制作を開始する。もともとチェルシー・カレッジ・オブ・アーツではファインアートを専攻していたが、地元・茨城県では笠間陶芸大学校で陶芸を学んだ。山と川に囲まれた町・笠間は、陶器の産地として知られる。華美な装飾を施す有田焼とは異なり、笠間焼は装飾性を抑え、日々の器として用いられてきた歴史を持つ。その佇まいには、土ものならではの粗さと素朴さが息づいている。 

焼成と施釉の技を身につけたことで、川井は三次元の手触りを帯びた幼い記憶へと分け入り、それを粘土をこねるようにかたちを作り上げるようになった。釉薬を点描のように配し、鮮烈な色彩で有機的な形態を表現する作風によって、川井の陶は分類を拒みながらも一目でそれとわかる。古来から続く工芸にレトロフューチャリズムが重なり、人工と手仕事はひとつになりながら、なお緊張感を孕む。夢のような形態を引き寄せつつも、そこには現実と同じ不完全さが残されている。川井はときに、ティーカップや欠けた犬の陶器といったものを新たな粘土とともに焼き上げて、混じり合っていることそのものを称揚する。 

 

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アレクサ・クミコ・ハタナカもまた、伝統的な和紙という素材に出会ったとき、個人的な変容の旅の途上にあった。カナダ系日本人のアーティストとしてトロントで育ったハタナカは、その好奇心と人生の巡り合わせに導かれ、北極圏のような遠方へも旅を重ねてきた。やがてハタナカは、漁師であった曽祖父のルーツを改めて知りたいと思うようになる。同時期には、すでに和紙を用いた作品も制作し始めていた。ハタナカは2022年から2023年にかけて高知県の山間部、いの町にある7代続く和紙工房「鹿敷製紙」で滞在制作を実施。外へ向かう探索を長く続けてきたハタナカにとって、その時間は、自分の内側にある世界を理解するための決定的な鍵となった。  

ハタナカの制作過程は、「Patience and Persistence(根気と継続)」(2025年、カナダ大使館高円宮記念ギャラリー)で発表されたジョニー・ニエム監督による映像作品に記録されている。映像には、熟練の和紙職人たちとともに、楮の収穫から紙漉きの工程を手伝う姿が映し出される。ハタナカの和紙作品は、アーティストにとっての解放の時期を象徴するものだ。ハタナカはまず、青や深い褐色といった自然由来の色で紙を染め、そこに形やパターンを描き込む。ときにリノカットの版画も重ねる。大作のいくつかはタペストリーを思わせるが、実際には「縫われた和紙」である。こんにゃくで揉み込んで皺のある質感を与えたのち、断片を一つひとつ縫い合わせていくのだ。さらに、魚拓が刷られた和紙の旗や、和紙で仕立てた衣服、和紙製の足袋といった、ハタナカ自身が身につけるための作品の制作風景も収められている。フィルムは、ハタナカが作品を身にまとい、魚拓ののぼり旗を誇らしげに掲げながら渋谷のスクランブル交差点を歩く場面で幕を閉じる。それは、漁師であった曽祖父の系譜を想起させる所作でもある。 

 「当時、私は内なる風景や感情の世界に渦巻く葛藤を、自分の身体ごと通り抜けるために制作していました。当時の作品は欲望に従い、快楽へと身を向け、解放に向かう表現や誠実さの行為へと自分を向けていく、その成長の痛みを映し出しています。同時に、共同体や帰属を求めてやまない私自身の経験も、そこに刻まれています」とハタナカは語る。「とても大きな変化のただなかで、孤独やメンタルヘルスの問題が作品の中に“物質”として立ち現れたのです。」 

 

ハタナカの秀逸な点は、和紙に対する古典的な理解を軽々と超えていく点にある。白い紙面に墨を含んだ筆をそっとおろし、慎重に一画ずつ動かしていく――そうしたイメージではない。そこにあるのは、幾百ものストロークであり、プリントの層が幾重にも重なり、その下には天然染料の層が横たわっている。和紙を書や絵画のためのメディウムとして捉えるのではなく、ハタナカは和紙と自身の身体のあいだに、直接のやりとりをひらいたのである。和紙は第二の皮膚として機能する。鎧でも盾でもない。むしろ多孔性なケープとして、接触、圧力、色、痛み、苦しみ、歓びを吸い込み、それらの感情を物質のかたちへと解き放つのである。 

文化を貪欲に摂取し、好奇心につき動かされる魂にとって、物理的あるいはデジタルな記憶に蓄えられた言葉やイメージは、制作という魔術的で神話的なプロセスのなかでふたたび立ち上がってくる。たとえば、川井作品の中で参照されることのある、90年代に日本でポップカルチャー的な人気を博したハワイの画家クリスチャン・リース・ラッセンが描く椰子の木や、ハタナカの足袋やジャケットといったモチーフもまた、作家の内側に記憶されていた断片であり、素材の前に立った瞬間に、何らかのかたちで解き放たれるのである。さらに重要なのは、両者が自然の素材から制作を始めることで、内なる心象風景と、大都市から離れた故郷とのつながりをより深く捉え直していく点である。ここに、ハタナカが川井と共有する「変容」の質がある。すなわち、天然素材の予測不可能性へ身をゆだねながら、それを取り巻く精神的なネットワークへとアクセスしていくということである。 

多孔性は、他の物質をどれだけ吸い込み、受けとめられるかによって測られる。ときに私たちに必要なのは、そうした多孔性を持つ素材なのかもしれない。それを介してはじめて、内側にある現実に輪郭が生まれ、遠い夢が生のほうへ引き寄せられるからである。川井とハタナカの作品は、夢の反映というよりも、むしろ新たな現実へと踏み出すための器として捉え直すことができる。茨城と高知で生まれた作品は、アーティストのいまの切実な欲求と、祖先へとつながる根をそのまま映し、確かな真実味と強度を帯びている。陶と和紙の器が意味を宿すのは、二人が純粋な意図をもってそれに触れたという、その行為自体にある。見栄えがよい必要も、完璧である必要もない。必要なのは、ただ存在することだけだ。アーティストの心から立ち上がり、物質としてこの世界に現れる――その一点において。 

展覧会タイトルをあらためて振り返りながら、川井は次のように語る。「『ついたよ』は、『ここにいる』、『たどり着いた』という意味で、日常的に使われる日本語の言い回しです。私がこの言葉を好きなのは、どこに到着したのかを特定しないところにあります。さらに、それが最終目的地なのか、待ち合わせ場所なのか、あるいは“戻ってきた”ということなのかさえも、決めつけない。だからこそ、この言葉には想像の余地が残されているのです。」 

創造的な生は、絵画や陶器の花瓶、彫刻、タペストリー、ドレスと同じく、一挙に完成するものではない。段階を重ねながら、少しずつ築き上げられていくものである。各段階で、次の層を重ねられるだけの地盤があるかを確かめること――それだけが、私たちが自らの務めとして引き受けうる唯一のことである。何ものかになること(becoming)とは、創造そのものである。そして多くの場合、最良の成果は予期せぬかたちで立ち上がってくる。 

 

ソフィー・マユコ・アルニ|インディペンデント・キュレーター(東京・アブダビ) 

開催概要
ついたよ : Becoming by Making

アーティスト

会期

会期: 2026年3月14日(土)– 4月10日(金) 開廊時間: 11:30 – 18:00(火 – 土) ※日月祝休廊 ※特別休廊 3月21日(土) オープニングレセプション: 2026年3月14日(土)16:00 – 18:00 ※川井雄仁、アレクサ・クミコ・ハタナカが在廊いたします。

会場