SOMETHING SO BEAUTIFUL IS SO EASILY FORGIVEN
マイケル・リキオ・ミング・ヒー・ホー
2023年4月8日(土) - 6月3日(土)
KOTARO NUKAGA(天王洲)
KOTARO NUKAGA(天王洲)では、4月8日(土)より、6月3日(土)まで、アメリカ、ハワイ島生まれのアーティスト、マイケル・リキオ・ミング・ヒー・ホーの個展、「SOMETHING SO BEAUTIFUL IS SO EASILY FORGIVEN」を開催します。展覧会会場に入った鑑賞者は、ギャラリーの白い壁の一部が剥がされて作品化されていることにまず驚きを覚える事でしょう。本展「SOMETHING SO BEAUTIFUL IS SO EASILY FORGIVEN」では、ホワイトキューブと言われるギャラリーの壁に直接介入するカタチで制作した壁面作品10点によって構成された展覧会となります。
マイケル・リキオ・ミング・ヒー・ホーは、1996年ハワイに生まれ、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)芸術学部にて芸術を学び、2018年に首席で卒業をしました。その後すぐに、活動の場を東京に移しています。ホーは、カリフォルニア大学時代に師事したバーバラ・クルーガー(1945-)、彼女と同時代のアーティストであるジェニー・ホルツァー(1950-)、そしてローレンス・ウィナー(1942-2021)など「言語」を扱うアーティストから影響を受け、彼らと同じく「言語」を扱うことを表現の中心に据えてきました。
わたしたちホモ・サピエンスの先祖は約5万年前に起きた「言語」の発明によって最初の特異点を迎えることとなりました。言語によってコミュニケーションと協調を可能とした人類はその後、他の生物とは違った政治的な進化の道を辿り、言語によって様々な領域化を進めてきたと言えます。言語は民族を分かつ要件であり、国家を領域化し権力構造をつくりだしました。1960年代に始まるコンセプチュアル・アートのアーティストたちは、この言語を構成する文字や言葉というものに対して高い関心を持ち、イメージと言語の関係を積極的に探求してきました。前出したバーバラ・クルーガーやジェニー・フォルツァーは1980年代以降、言語やイメージによる表象批判を表現の中心に据え、産業革命以降、西洋中心に急速に進む資本主義の中、女性や人々の欲望などが、どのようにマスメディアや広告の中で表象されてきたのかという構造的な問題を露にしました。彼女らが明らかにしたことは、わたしたちはどのような「言語」を聞きながら生活するのかによって、そのあり方を変化させられているということでした。
1996年生まれのホーは、1990年代中盤から2010年代序盤生まれの世代を示す「ジェネレーションZ」、いわゆる「Z世代」といわれる世代のアーティストです。ホーは現代アートを提示するアーティストの責任は、今、世界で何が起きているのかということに反応し、行動することであると述べます。本展における壁面作品はギャラリーの壁に直接描いた「フレーズ」をドライボードごと剥がしたペインティングと、壁の内部の構造体に直接「フレーズ」を描いたペインティングの組み合わせによって構成されています。描かれた英語の「フレーズ」はホーが様々なメディアから抽出したテキストによって作り出した「フレーズ」であり、インターネットやソーシャルメディアなどに溢れるダークで不条理なユーモアを含むミームカルチャーの影響を受けたものとなっています。
「ミーム」とはイギリスの進化生物学者であるリチャード・ドーキンスが著書『利己的な遺伝子』にて作り出した造語で、脳から脳へと伝わる文化の単位のことで、文化的な観念(アイディア)を「模倣」によって伝える遺伝子のような自己複製子のことです。それが転じて、「インターネット・ミーム」とはインターネット上で言葉や行為、画像、動画などの情報が拡散され流行する様やその情報そのものを指し、インターネットやソーシャルメディアを使いこなすZ世代はネット上に広がる様々なミームを共有することで、共感を生み、異なる世代から押し付けられる別の価値観に対する不満や、未来への失望、幻滅といったものを皮肉やダークなユーモアによって自らの価値観や感性として表現しています。ミームには動画や画像なども含まれ、たとえ言語であってもその言語が指し示す直接的な意味だけではない非言語的な領域がSNSなどを通じて「ミーム」として伝えられます。


フランスの哲学者ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは1975年に著した『カフカ マイナー⽂学のために』にてチェコ・プラハ⽣まれのユダヤ⼈であるカフカがドイツ語で書いた⽂学作品を「マイナー⽂学」と位置付けて、その特徴を分析しました。
マイナー⽂学とは、少数⺠族が、⾃⺠族の⾔語ではなく英語やドイツ語、フランス語といった広く使⽤さ れる⾔語によって書く⽂学のことを指します。(作者が⺟国語を使⽤していないため)不⾃由で語彙の涸渇した貧しい⾔ 葉で書かれた⽂学において、⾔語はあらゆる仕⽅で(⾔語的なマチエールによって)⾮領域化の影響を受けることとなります。マイナー⽂学による表現は、単に意味するものを⽰すにとどまらず、強度なマチエール的表現に到達する⽅向へと 進みます。この「内容と表現の分離」は⾔語を深く掘りさげ、その⾔語が作り出した領域を展開させ、意味から逃⾛の線を導いた先、つまり、⾔語が⽰す意味ではないところに表現の領域を作り出し、⾮領域的なリゾーム(中⼼を持たない根茎)となり新たな可能性、創造性を⽣み出すのです。
21世紀も3度⽬のディケイドを迎え、グローバル化、インターネットによって⾼度に情報化された現代において、同⼀⾔語内におけるマイナー⽂学の登場はジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリがかつて『カフカ マイナー⽂学のために』 で⽰したように、地域などに起因する少数⺠族など横の広がりの中だけで起きるものではなくなく、世代間という縦の広がりの中においても起きているのではないかと考えられます。
Z 世代が使うミームは、同じ英語といった⾔語であってもドゥルーズとガタリが⽰したマイナー⽂学と同様に、英語という広く使われる⾔語を⾮領域化させ、Z 世代の個⼈を政治 的なものへと結合させ、⼀つの共通⾏動を構成し、集団的鎖列とさせるのではないかと考えられるのです。
ホーによる、⾔語を使った「フレーズ」はインターネット・ミームの影響を⾊濃く受け、様々な不完全さや不⾃然さを含 むものとなっています。それらは、彼の選んだ「フレーズ」を現代における「マイナー⽂学」とし、⾔語を⾮領域化させ、 彼の表現を意味の先へと向かわせます。ひとつの「フレーズ」にいくつかのデザインのフォントが使われていること。⾔語でありながら絵画であり、テクスチャーをもっていること。あえて混在したアメリカ英語とイギリス英語など⽂法的・ ⾔語的な不⾃然さ。そして、それらをアーティストがそこ(ホワイトキューブであるギャラリー空間)で描いたという痕 跡がさまざまな形で表⾯に残るこれらの「フレーズ」における状況は、
ひとつの⾔語の貧しさを⽰すこれらの特徴のすべてがカフカにおいて⾒出されるが、しかしそれらは創造的な⽤法の中で捉えられており、新しい冷静さ、新しい表現性、新しい屈折性、新しい強度のために役⽴っているのであるi 。
とドゥルーズとガタリがカフカの⽂学に⾒出した強度的なもの(intensif)またはテンソルと呼ぶことができるものとなり ます。それらは、ホーの⾔語をそれが指し⽰す意味から距離をとらせ、強度のある⾔語的なマチエールとなり、英語という⾔語を内側から酷使し、英語は逃⾛の線の先に延⻑されるのです。 さらに、それら「フレーズ」を描いたペインティングとしてギャラリーの壁に直接介⼊し、描き、引き剥がすというアー ティストの⾏為は、1929年にニューヨーク近代美術館(MoMA)が公共性に⽀えられた近代美術館制度を⽬指し導⼊した、 「ホワイトキューブ」というその領域化された制度からも軽やかに逃⾛する、Z 世代のアーティストの態度と⾔えます。 このアーティストの「⾝振り」は単なる破壊⾏為ということではなく、⾔語を扱う表現の⼀部としても⾒ることができま す。つまり、⾔語というものを「話す」、「聞く」、「書く」、「読む」といった意味的な使⽤とするのだけではなく、⾔語をメディウムとして扱い、通常の⾔語領域とそれによって構造化された世界(ホワイトキューブ)への介⼊によってそ れを⾮領域化し、創造の可能性を広げる姿勢として⾒ることができるのです。
壁⾯への介⼊は、MoMAの⽬指した制度化 以降、何も語らないでいることが当たり前となり、透明化をさせられてきたホワイトキューブの⽩い壁に、⾔語的なマチ エールの⼀部として、何かを語らせはじめるものとなるのです。また、切り取ったギャラリーの⽩い壁とその内側の板張 りの壁という両⾯を表現領域とし、それらを組み合わせ(ゲシュタルト)でも使⽤しており、より複雑な⾔語表現を⽣み 出しています。
ホーが⽰すものは、上の世代の⼈々によって領域化された世界の構造を⾃分たちの世代の⾔語によって⾮領域化し、逃⾛ の線を引き、リゾーム的に創造の可能性を広げるものなのです。
i ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ、『カフカ マイナー⽂学のために』、宇波彰/岩⽥⾏⼀訳、法政⼤学出版、 1978年、41⾴。
アーティスト
会期
■開催概要 「SOMETHING SO BEAUTIFUL IS SO EASILY FORGIVEN」 会期: 2023年4月8日(土)- 6月3日(土) 開廊時間: 11:00 – 18:00 (火-土) ※日月祝休廊
会場