神様、もう少しだけ

2025年5月17日(土)– 6月28日(土)

KOTARO NUKAGA(天王洲)

KOTARO NUKAGA(天王洲)では、2025年5月17日(土)から6月28日(土)まで、川井雄仁による個展「神様、もう少しだけ」を開催します。1984年生まれの川井は、陶を中心に感情や記憶、願望といった内面的な動きを、物質として提示する実践を展開してきました。近年では「GO FOR KOGEI 2023」への参加や、ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)への収蔵など、国内外で着実に評価を高めています。本展では、1990年代末から2000年代初頭のポップカルチャーに刷り込まれた「理想の家族像」と現在の自身との対比を通じて、陶による表現の新たな展開を見せます。

本展のメインビジュアルに映るのは、川井が自らを「父」として配置し、食卓を囲む家族風景を演じた写真です。家族が団らんする90年代ドラマのワンシーンのようなその写真には、セットのようなライティングも相まってどこか現実離れした違和感が滲みます。すき焼きを家族で食べながら、例えばその日の学校のことを子どもたちに聞いている。川井が幼少期からドラマや映画で憧れ、刷り込まれてきたヘテロセクシュアルで核家族である「理想の家族像」が自身の人生と食い違っていることを象徴するこのシーンでは、川井自身が父親役を演じています。 

この「理想」と現実のズレは、2024年に秋元雄史氏がキュレーションした川井の個展「クローズアップ現代陶芸〜わたしがおぢさんになっても〜」でも扱われており、若いころに想像していた未来に現実が追いついてくるという、非常に私的でありながら誰しもが経験する普遍的なテーマが本展の主題となります。留意するべきは、川井は単に現実と理想の差を捉えるのではなく、自身が10代から20代のころに刷り込まれた様々な「理想像」や価値観が、自身が実際に生きた人生と大きく違うにも関わらず、憧れとしていまだ自身のアイデンティティの一部に内包されていることの気づきを主題にしていることであります。 

文化理論家のローレン・バーラントは、自らの生活を成立させる条件として、このようにすでに対象がもはや機能しなくなってもなお、特定の理想や欲望に依存してしまう構造を「残酷な楽観性(Cruel Optimism)」*1 と呼びます。同名著書(2011)でバーラントは、上昇志向や安定した家族生活といった価値観を例に、達成できない理想への執着が、個人にとって逆説的に生存の条件となるという「残酷さ」を説きます。そういった執着は、対象への憧憬であると同時に”その理想を求め続けた人生”という”自身のナラティブ*2 ”としての意味ももつのだとバーラントは書きます。 

川井にとっての家族像は、かつて自らが無邪気に信じ、今なお手放せない理想像への残酷な執着として立ち現れています。バブル崩壊からの回復に、奇しくも近未来への希望を重ねた
90年代後期から2000年代のテレビドラマや広告が描いた「理想の家族像」をはじめとした楽観性は、川井、そして多くの現代の個人にとってもノスタルジーに変換されながらも内面に深いナラティブとしてとどまり続けています。手放すことも実現することもできない存在になったイメージたちは、個人の記憶と社会の中での描かれ方の行き来の中で、とても曖昧かつその印象も一緒くたに楽観的でもないアンビバレントなものとなっています。

そういった内面化された重く脆い憧憬は、川井の陶作品に色濃く現れます。各作品のタイトル(《Love phantom》など)や、浜崎あゆみのシンボルマークの入ったうちわ型の装飾のある《丹》、当時のイメージを想起するカラーパレットなど、川井の作品は記憶が様々な記号として焼き物の中に現れます。川井の作品にはたびたびポップなパステルカラーの色彩や、玩具やぬいぐるみを想起させる形態などが見られ、ユーモアのある表現は、しばしば「かわいさ」として評価されます。しかし、シカゴ大学教授シアン・ンガイが『Our Aesthetic Categories』(2012)で指摘するように、「かわいらしさ」はしばしば、保護を必要とする弱さや、他者に依存する非対称な関係性を伴います。川井の造形においても、そうした“られるべきもの”としてのイメージは、しばしば過剰に装飾されながらも、その表層の下に傷つきやすさや崩壊の予兆を孕んでいます。「かわいさ」は単なる視覚的快楽ではなく、内面に抱えた不安定さを覆い隠すための演出であり、同時にそれを漏れ出させてしまう不完全な仮面として機能しているのです。

こういった陶を用いた内省的な表現が、素材と精神の交錯を志向する伝統的な陶芸とは明確に異なる態度から由来していることも川井の作品の重要な特徴と言えるでしょう。柔らかく、形を変え、やがては壊れる土の物質的特性や、乾き、歪み、焼成の過程で生じる偶発的なひび割れや釉薬の垂れは、理想と現実の狭間で揺れ動く個人の内的な葛藤を、最も正確に受け止める媒体となっています。下から土を積み上げていった川井の陶作品たちは、まるで溶けているかのように崩れかけの状態で立ち上がっています。制作の過程で起こる科学的な変化や重力の作用は、川井が10代や20代の頃に刷り込まれた理想像に対するノスタルジーや重くて脆い憧憬と詩的にも重なり、陶という素材の選択に必然性を与えています。 

本展において、メインビジュアルをはじめ、川井がインターネットで集めてきた当時のイメージ画像たちと陶作品が同時に展示されることによって、「演じられた理想」と「崩壊を受け入れる物質」が呼応する構造が立ち上がります。写真に写る川井の姿が、仮構のなかで社会に決められた役割を成立させようとする試みであるとすれば、陶のかたちは、その役割を演じきれなかった記憶の堆積、あるいはその「不成立」を引き受けるための構造体だと言えるかもしれません。歴史的にも「器」や「容れ物」としての役割を担ってきた陶というメディウムは、川井の作品においては、中身のない空洞を形作る、そこに積み重なった感情や記憶の残滓(ざんし)を可視化する方法論として立ち上がっています。

「神様、もう少しだけ」。 1998年に放送された、金城武と深田恭子主演の同名テレビドラマに由来した本展タイトルに込められたのは、叶わぬ理想への回帰ではなく、その理想に囚われたまま演技を続ける身体が、わずかな猶予を求めて発する切実な言葉です。舞台を降りることも、完全に役に入りきることもできないまま、身体はその役割の中間に留まり続ける。川井が本展で演じる“父親”は、そうした未完の演技の象徴です。家族を模した写真の中で彼は、自らを規定してきたイメージに「なろうとすること」を続ける。その時間の中断を拒みながらも、どこかで終わることを望んでいるようにも見えます。

これは社会的役割を演じきれなかったことへの挫折ではなく、「演じきることが不可能な枠組み」に対して、なおも触れ続けたいと願う身体の記録です。陶の造形が歪み、釉薬が崩れ落ちるのは、失敗の痕跡ではなく、演技そのものの構造——完成を前提とせず、崩れながら持続すること——をかたちにしているからです。本展におけるメインビジュアルと陶作品は、それぞれ異なるかたちで「演じられた理想=与えられなかった役を生きる身体」と「崩壊を受け入れる物質=その枠からはみ出す身体の痕跡」を提示しています。写真は構図と演技によって、理想像の再現を試みるのに対し、陶作品は、形成途中の崩れや釉薬の流れ、空洞のざらつきをそのまま残し、構築に耐える”自身のナラティブ”を物質化します。その手触りは、作家自身の不完全な生の断片であり、鑑賞者にとっての投影面にもなり得るでしょう。

ぜひ、この機会にご高覧ください。

*1 原題のCruel Optimismをそのまま訳すとしたら、「残酷な楽観主義」といった言葉が近いが、米文学者のハーン小路恭子氏が24年5月のブログにて、2025年に岸まどか氏との共訳にて花伝社より『残酷な楽観性(仮題)』として、刊行予定であることを伝えているので、先例にならって「残酷な楽観性」としているhttps://shohakusha.com/news_detail/76

*2 「自身のナラティブ」というのは筆者による意訳で、Berlantは『Cruel Optimism』(2011)にて「But optimistic attachments also involve an investment in one’s own continuity; they are not only desires for the object but also for the scene of one’s endurance」(p.25)と書く。「自身の連続性」「自身の持久力を示す場面」といった言葉が直訳としては正しいとは思うが、複雑化を避けて意訳している。

【参考文献】 
Berlant, Lauren. Cruel Optimism. Duke University Press, 2011. 
Ngai, Sianne. Our Aesthetic Categories: Zany, Cute, Interesting. Harvard University Press, 2012.

 

撮影協力: Yuto Kudo

開催概要
神様、もう少しだけ

アーティスト

会期

会期: 2025年5月17日(土)– 6月28日(土) 開廊時間: 11:00 – 18:00(火 – 土) ※日月祝休廊 オープニングレセプション: 2025年5月17日(土)16:00 – 18:00 ※川井雄仁が在廊いたします。

会場

プレスリリース