Flowers of Memory
2026年7月4日(土)– 8月8日(土)
KOTARO NUKAGA(天王洲)
KOTARO NUKAGA(天王洲)では、2026年7月4日(土)から8月8日(土)まで、ニール・ホッドによる個展「Flowers of Memory」を開催します。本展は2022年「Echo of Memories」以来、KOTARO NUKAGAでは二度目となるホッドの個展です。
ホッドはこれまで、テルアビブ美術館(イスラエル)、サラ・ヒルデン美術館(フィンランド)や、欧米のギャラリーを中心に作品を発表してきました。また、Art Baselをはじめとする国際的なアートフェアでも作品が紹介されるなど、批評と市場の双方で高い評価と人気を獲得してきた、現代美術における重要な存在です。
リネンやキャンバスの上に重ねられた油彩とクローム、そこに注がれる酸やアンモニアの化学反応を経て立ち上がる絵画は、銀色の鏡面のなかに咲き誇る花々の楽園を浮かべ、観る者の像をそのまま画面のなかへと迎え入れます。風景画というジャンルを起点としながら、絵画の表面そのものを、光と記憶が降り積もる場として再構成する試みです。
水鏡と花
“The world asks to be seen: before ever there were eyes to see the eye of the waters, the huge eye of still waters watched the flowers bloom.”
「世界は見られることを望んでいる。見るための眼が存在する以前には、水の眼、森閑とした水の巨きな眼が、花々の開くのをみつめていた。」
—— ガストン・バシュラール『夢見る権利』*1
銀色の鏡面のなかに、花々の浮かぶ水辺が立ち上がる。あるいは朝靄に包まれた湖、しんと澄んだ池の景色が、柔らかな光のなかに半ば浮かび、半ば溶け合う。〈100 Years Is Not Enough〉と題されたシリーズは、観察された自然から生まれたものではなく、純粋な想像と純粋な記憶のなかから立ち上がるものであり、現実のいかなる場所とも結びつかない。眼に映る自然ではなく、心のなかで感受された自然、記憶のなかにのみ咲く風景である。パンデミック期、ニューヨークを拠点とするホッドはコネチカットで長期にわたり自然のなかに身を置く時間を持った。そのとき訪れた「生きていることの美しさを受けとめるには百年では足りない」という感覚が、シリーズ題そのものとなった。
制作のプロセスは、複数の層を行き来するように展開する。まずリネンやキャンバスが抽象的な階調の色で塗られ、絵画の最初の息づかいが立ち上がる。その上に鏡のような光沢を持ち、像を映し返す金属であるクロームの層が被せられ、画面は一度、銀色の鏡へと姿を変える。そこにホッドは酸やアンモニアを注ぎ、ときにバーナーの炎を当てる。それらはクロームと化学反応を起こし、その瞬間ごとに偶発的な変化が立ち上がる。クロームの一部が呼吸するように開いていき、下層に眠っていた色彩がふたたび姿をあらわす。そして最後に、もう一度油彩を重ねていく。三つの層は互いに溶け合いながら、ひとつの像へと結ばれていく。緑の絵具が偶然画面に滴り落ちた瞬間、それが水面に浮かぶ植物の残響のような効果を生んだ瞬間から、酸性の素材を用いて沼や湖の濁った水のような表面をつくり出し、水と光の物質性を絵画として呼び出す技法が開かれていった。哲学者ガストン・バシュラールが論じたように、水は私たちの想像力に最も深く触れる物質である。流れる水、留まる水、光を映す水——水は、それを見つめる者の内に眠る記憶を呼び覚ます。ホッドの画面で起きているのは、まさにこの種の水の物質化である。銀色の鏡が酸の作用によって深い色合いを帯びるとき、画面は単なる風景の再現を超え、観る者をその内側へと迎え入れる場となる。観る者は画面のなかに像を結び、絵の前に立つ自分自身と出会う。
〈100 Years Is Not Enough〉が参照するのは、モネの《睡蓮》である。だがホッドのシリーズはモネを再演するのではない。古典の名画は記憶のなかで一度ほどかれ、銀色のクロームの輝きと化学物質の作用のなかで、古いダゲレオタイプ写真のような、淡く、ほとんど夢想的なイメージとして甦る。
シリーズ題が告げるのは、生きていることの美しさを汲み尽くすには、いかなる時間も足りないという感覚である。フランスの哲学者ヴラジーミル・ジャンケレヴィッチは、ノスタルジーを過去への単なる憧憬ではなく、私たち自身が「不可逆な時」のなかにあるという事実そのものから発する「アプリオリな感情」として論じた——「私から取ったものを返して下さい」、その声がノスタルジーの根源である *2。だが取り戻すことは決してできない。だからこそノスタルジーは「甘く苦い、不幸な幸福、心地よい不幸、悲痛な甘美さ」、つまり道徳的な悔恨ではなく、ひとつの美的な感情として形容される。「百年は足りない」とは、まさにこの感情の宣言である。咲き続ける花は、過ぎ去ることを定められた美しさとして、いま咲いている瞬間のなかに、いつかへの予感をも同時に宿している。
そしてジャンケレヴィッチが晩年にたどり着いた最も深い洞察が、「誤った再認」の概念である。「自分が決して行ったことのないところへ戻り、かつて見たことのないものを再び見るのだ。しかもこの誤った再認は真の再認よりもいっそう真実である」*3。本物の記憶を辿る再認よりも、行ったことのない場所を懐かしみ、見たことのないものを見覚えあるものとして迎える。その心の揺れのほうが、私たちと時間との関係をより深く露呈させる。ホッドの絵画は、まさにこの「誤った再認」の場として立ち上がっている。観る者は画面の前で、見たことのない庭に懐かしさを覚え、訪れたことのない湖を記憶として認める。新たなもののうちに古い記憶が呼び覚まされ、いまとかつての境界が一瞬ぐらりと揺らぐ。その経験の真実性こそが、ホッドの花々を単なる装飾的風景から切り離し、観る者一人ひとりの内面へと結びつける。
「Flowers of Memory」。本展のタイトルが示すのは、ホッドが描く花が、どこか特定の場所から呼び起こされた花ではなく、記憶そのもののなかに咲く花であるということである。世界のうちにある具体的な花ではなく、記憶という出来事それ自体の開花である。記憶は完璧な像を保存しない。それはほどけ、移ろい、抜け落ちる。しかし、にもかかわらず、いやそれゆえに、私たちの心を深く惹きつける。ホッドの花々は、その移ろいやすさのうちにこそ咲くことのできる花である。「見つけたものをなおも探す。だが、探す瞬間にすでにみつけたのだ」というジャンケレヴィッチの逆説のなかに、本展は観る者を招き入れる。
*1 ガストン・バシュラール「睡蓮あるいは夏の夜明けの驚異」(1952年)、『夢見る権利』(1970年)所収。英訳は Gaston Bachelard, “The Water-lilies, or the Surprises of a Summer Dawn,” in The Right to Dream, trans. J. A. Underwoodより引用。
*2 ヴラジーミル・ジャンケレヴィッチ『不可逆なものとノスタルジー』(1974年)、仲澤紀雄訳『還らぬ時と郷愁』国文社、1994年。
*3 同前、416頁。
参考文献
ガストン・バシュラール『Le Droit de rêver』(1970年)、ガストン・バシュラール『夢みる権利』澁澤孝輔訳、青土社、1977年。英訳: Gaston Bachelard, The Right to Dream, trans. J. A. Underwood, Dallas Institute Publications, 1988.
ガストン・バシュラール『L’Eau et les rêves』(1942年)、小浜俊郎・桜木泰行訳『水と夢——物質的想像力試論』(国文社、1969年)
Vladimir Jankélévitch『L’Irréversible et la nostalgie』(1974年)、仲澤紀雄訳『還らぬ時と郷愁』(国文社、1994年)
ヴラジーミル・ジャンケレヴィッチ『不可逆なものとノスタルジー』(1974年)、仲澤紀雄訳『還らぬ時と郷愁』国文社、1994年。
島村幸忠「V.ジャンケレヴィッチのノスタルジー論——「閉じたノスタルジー」と「開かれたノスタルジー」を中心として」(2014年)
アーティスト
会期
会期: 2026年7月4日(土)– 8月8日(土) 開廊時間: 11:30 – 18:00(火 – 土) ※日月祝休廊 オープニングレセプション: 2026年7月4日(土)16:00 - 18:00 *作家本人が在廊します。
会場